タイで感じてきた、人を信じられる社会

今年もタイへ行く。

そのタイ行きが2週間後に迫ってきた。

娘が通っているトモエ幼稚園の園長が先日、おはなし会でこんなことを言っていた。

 
人が人を信じられなくなってきている。
これはまずい。
地域社会が崩壊し、マンション、核家族の中で母親は密室の中で二人で子育てを強いられている。
昔に比べて母親の負担は何倍にも増している、と。
 
園長はそんな話を常日頃しているので、1年前、タイに行く前は、その話を頭だけで理解して、「へぇなるほどな、そうなんだな」と思っていた。
 
しかし今は違う。
タイで、そうではない状況の中で生活をしてきたから、体感として「本当にそうだよなぁ、これはまずいぞ」と思うのだ。
つまり、人が人を信じて助け合うのが当たり前で、地域の中で子どもは複数の大人に大事に育てられている社会だ。
それを見て、これはきっと50年ほど前の日本の社会もこうだったのではないかと想像した。
 
タイの人は異口同音にこう言う。
子どもは国の宝だと。
子どもを大事にするのが当たり前だから、小さい子を見ると誰かれかまわず声をかけてかわいがる。
もちろん外国人であるうちの子供たちにも同様に声をかけてくれて、安心して接してもらうことができる。
その習慣が身についているため、5歳のタイ人の男の子が、当時2歳の娘に対して、大人が子どもにそうするように、かわいがってくれていた。
 
その習慣があるからか、結果的に大人も大人に対してやさしい。
だから基本的には他人を信じることができる。
そして小さい頃から認められながら育っているから、自分を信じることもできていることを感じる。
 
週に一度、買い物に町に2時間かけて歩いて出かけていたのだが、一日平均2回ほどの「逆ヒッチハイク」を経験していた。
逆ヒッチハイクとは、ぼくらが歩いていると車が停まってくれて、どこに行くんだ?それなた近いから乗ってけよ、歩くなんて暑いんだから、いいから乗ってけ乗ってけと言ってくれること。
(それを経験したときに私が思いついた言葉です。)
普通はヒッチハイクは乗せてもらうほうが車に対してアピールするのに、タイでは逆だった。
 
とにかく社会にやさしさがあふれていた。
だから日本で子どもを連れて歩くと感じる緊張感を、まるで感じずに済んだ。
こんな感覚って、あるんだなと思った。
行ってみなければわからない感覚。
 
そして帰ってきて先日聞いた園長の話。
人が人を信じられなくなってきている。
これはまずい。
地域社会が崩壊し、マンション、核家族の中で母親は密室の中で二人で子育てを強いられている。
昔に比べて母親の負担は何倍にも増している、と。
 
そうだそうだ。
確かにこれはまずい。
母親の負担は大きすぎるし、虐待が起きるのも当然だ。
 
今年もタイに行くので、そういった社会の中でもう一度生活し、その感覚を身にしみこませてきて、帰国後もそういったやさしい社会づくりを目指して、日々を過ごしていきたい。